和牛の歴史
絶滅の危機から全国の黒毛和種の素牛へ
守られ続けた血統と名種牛「田尻号」
歴史年表
- 1845年(弘化 2年)
- 前田周助が、現在の香美町小代区で「周助蔓」を造成。
- 1909年(明治42年)
- 2月10日小代村(現在の香美町小代区)の田野吉三郎氏が飼っていた、周助蔓の血を引く「第二あつ号」が、「ぬい号」を出産。後にこの「ぬい号」を、小代村新屋字熱田の田野徳三郎氏が購入して優良な雄牛を生産し「熱田蔓」を造成。
- 1928年(昭和 3年)
- あつた蔓の雌系の祖である「幸福3号」が誕生。
- 1939年(昭和14年)
- 小代村貫田で「田尻号」が誕生。
- 1943年(昭和18年)
- 小代村に「あつた蔓牛組合」が設立される。
周助蔓・熱田蔓およびその分かれ蔓の子孫から、産子成績の特に優れた雌牛7頭を選抜して基礎牛とし、これに種雄牛「田尻号」を交配して、新蔓牛としての造成が試みられた。しかし、第二次世界大戦の影響で本格的な活動に至らなかった。 - 1949年(昭和24年)
- 小代村に「あつた蔓牛組合」が結成され、新蔓牛「あつた蔓」の造成が本格化。
- 1952年(昭和27年)
- 「あつた蔓牛組合」が、広島県の「あづま蔓牛組合」とともに
国内初の公認蔓牛組合となる。 - 1964年(昭和39年)
- 6月「あつた蔓牛組合」と「ふき蔓牛組合」の統合による、「美方郡和牛育種組合」設立。
前田周助と周助蔓
江戸時代、美方郡小代村水間村字猪の谷(香美町小代区)は小さな田畑で農家を営む谷間の村で、けして裕福な村ではありませんでした。そこに住む前田周助という牛飼いは、良い牛をつくり売ることで村の暮らしをより豊かにしたいと思いました。いちはやく「良い母牛からは、良い雌牛が生まれる」と気付き、良い牛が生まれたと聞きつければ、生まれた日付や父牛、所有者など細かく記録を付け始めます。そして私財を投売り、3歳の雌牛の逸物を、破格の値段で買い入れて優良牛の生産に成功しました。これらの牛は周助蔓(つる)とよばれ、優秀な血統の雌牛集団として知られるようになりました。この情報を聞きつけた他の地域から、この母牛を売って欲しいと請われましたが周助はこれらの雌牛を小代の外に出すことはありませんでした。
但馬牛絶滅の危機を救った周助蔓
但馬牛が絶滅の危機に瀕したのは、明治時代の後半、もともとは役牛であった但馬牛を外国産の牛と交雑をさせて大型化し、食肉用に改良しようとしたことから始まります。交雑での改良は失敗で、牛が凶暴になったり、食欲は旺盛だが運動しないといった牛になり、肉質・性質ともに落ちてしまいました。「やはり純粋種の但馬牛からやり直すしかない。」と気づいた時には、周りには混血の牛ばかりで純粋種の但馬牛がいないという事態になりました。県内中を探し回り、ようやく見つけた四頭の純粋種の但馬牛。この四頭はまさしく周助蔓の血統の但馬牛でした。そのうちの一頭が、「ぬい号」でした。小代は他の村からも離れていたので、奇跡的に外国種との交配を免れていたのです。それからは他地域の品種との交配を行わず、限られた雄牛の精子のみを受精させることで血統の純化、改良が進められました。
名牡牛「田尻号」の誕生
「ぬい号」から、四代目の牛の「ふく江」に小代の牛飼いであった田尻松蔵は出会いました。一目で惚れ込んだ松蔵は多額の借金をして「ふく江」を購入しました。松蔵は毎日牛とふれあいながら大切に育てることで有名な牛飼いでした。そして前田周助と同じく牛を見定める眼を持っていました。彼は「ふく江」を大変可愛がりました。そして、「ふく江」の四番目に生んだ子が名種牡牛となる「田尻号」でした。松蔵は、この子牛が良い種牡牛になると信じて疑わず、毎日の運動と手入れを欠かしませんでした。「田尻号」は特別体格のよい牛ではありませんでしたが、松蔵の牛を見る眼と日々の努力によって、生まれて半年後には美方郡の種牡牛候補として認められ、現在の但馬牛の元祖となる第一歩を踏み出すことができたのです。田尻号は、種牡牛として使われていた12年間半のほとんどが自然交配だったにもかかわらず、全国に1,500頭近い子牛を残しています。人工授精の技術のない時代に、この優れた繁殖力は眼を見張るものでした。殊に肉質に関する遺伝的能力は特段に優れたもので、世界に誇る和牛肉の原点は、この「田尻号」にあるといってもよいでしょう。松蔵は「田尻号」を生産した功績が認められ、昭和30年に黄綬褒章を受章しています。また「田尻号」の功績をたたえて建てられた顕彰碑には、次のように書かれています。
「この名牛が生まれたのは偶然ではない。自然的な要因と、人為的な条件が融合しなければ叶わなかった。」
「田尻号」の誕生は、偶然ではなく和牛づくりに尽力した人々の努力の末にもたらされた奇跡といえます。田尻号は昭和33年まで生き、優秀な種牡牛として、黒毛和種の系統作りに貢献しました。
■蔓牛(ツルギュウ)とは…
蔓(ツル)とは植物のつるからきた言葉です。たぐりよせると、その枝葉末節までが明らかであるように、血筋が明らかで同じ血統に属する体型や能力に優れた特徴を有し、かつその形質を確実に子孫に遺伝する優良系統を指し、その系統に属する個体を「つる牛」と呼んでいます。
黒毛和種99.9%が 田尻号の血をひくことが判明
2012年2月、社団法人全国和牛登録協会の調べで、但馬牛について驚くべき数字が明らかになりました。全国の黒毛和牛の繁殖雌牛のうち、99.9%の比率で「田尻号」の子孫であると証明されたのです。母牛の99.9%が「田尻号」の子孫ということは、生まれてくるほとんどの日本の黒毛和牛は「田尻号」の子孫ということがわかったのです。